歌人 北久保まりこ
所属結社誌 心の花
所属結社誌 心の花
これまで掲載して頂いたショートエッセイなどを発表します。
結社誌『心の花』9月号にテーマ「私の自慢」が掲載になりました。ご依頼賜りましたお陰で、長年ひっそりと仕舞われていましたひと品を思い出すことができました。ありがとうございました。
『心の花』〈私の自慢〉2021九月号
「祖父の懐中時計」
北久保まりこ
柳川出身の祖父は、 *伝習館中学で北原白秋と同級だった。早稲田大学では理工学部に進んだので、科・学部違いながら、こちらでもほぼ同時期に在学していたことになる。六十代で他界し、直に話す機会は無かったが、時折、彼の名を口にしては、その活躍ぶりに感心していたそうである。
偉大な文人と、畑違いの祖父の不思議な縁を思うと、遺された懐中時計の重みが、手のひらにひんやりと心地良い。
生前は、**徳山に創った会社と、東京の自宅を行き来する多忙な日々を送っていた。几帳面な性格で、約束には遅れなかったという。大切な学会や講演の時間を、この時計で確かめたことだろう。祖母と待ち合わせ、当時流行り始めた英国式のティータイムを楽しんだかもしれない。末娘の誕生を喜んだ時、出征する息子を、涙を堪えて見送った時など、人生の様々な局面で、このオメガはいつも祖父の傍らに在った。
「よく今まで取って置かれましたね。貴重な品を預けて下さってありがとうございました。まだちゃんと動きますよ。」
分解掃除をしてくれた職人の言葉である。
覚まされし妙なる眠り 百年の記憶涼しき懐中時計 (二〇二一年六月四日 自作)
*現・県立伝習館高等学校。**現・周南市。
心の花 2月号 「佐佐木幸綱の一首」をご掲載頂き、また思いがけず「今月の15首」にもお選び下さいまして 大変光栄に存じます。
ありがとうございました。
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心の花「佐佐木幸綱の一首」2020二月号
歌集『旅人』より
未(いま)だ地の動かざる世に研(みが)かれしまろみやさしき凸レンズかな
一人旅が好きで、旅の歌も大好きである。赴いたことがある地ならば、思い出を辿りながら鑑賞でき、まだ見ぬ地ならば、想像のキャンバスに向かう無限の愉しみがある。かつて、「行ったことのある人にしか理解できないから旅の歌は駄目だ」という意見を聞いたことがあるが、決してそんなことは無い。
馴染みのカフェで歌集『旅人』を開くと、心は東京・武蔵野から、見知らぬ国オランダのライン川沿いの都市へと飛んだ。
掲出歌は、先生が早稲田大学在外研究員として、ライデン大学に在籍中の、一九九二年から九三年の間に詠まれた一首。ライデン科学博物館所蔵の凸レンズの歌である。
時は天動説の時代「未だ地の動かざる世」まで遡る。詠いだしから一気に攫われてしまった。うっすらと鳥肌立つような感覚とともに脳裏を過るのは、彫刻のアリストテレス、横目のコペルニクス、気難し気なガリレオの顎鬚。それに、なぜか顔が描かれた地球を、ど真ん中に配した天文図の記憶までが蘇る。注文したカフェラテが来るころには、六百年以上もの過去へ旅立ったまま、暫く彷徨っていたい気分になっていた。
異国で出会った上質なワインを楽しむように、旧い歴史の中に紛れ込んだ錯覚に酔う。臆することなく「凸レンズ」を覗くと、みえてきたのは当時の学者や職工の並々ならぬ努力と苦労。完成した暁には、拡大して映しだされた像を目の当たりにし、手を取り合って歓喜する人々。新しい発明や発見に心躍るのは、いつの世も同じである。
「まろみやさしき」の形容が、精密な研磨機材が無かったころの、人の手の温もりを思わせ、柔らかく胸に落ち着く。
掲出歌の二首あとに歌集に収められている歌を、ここで引いておきたい。
・見えざる星あるを信じし眼を思うはつなつのこのライデンの空
時代がすすみ、やがて地動説が唱えられる。そして、こうした「レンズ」の組み合わせから、ヒトは天体観測が出来るようになり、己の小さな存在を認識するに至る。
現代までに一体どれほどのウロコが、人類の目から剥がれ落ちたことだろう。
私は今銀河の隅で、遥かな昔から丹念に積み重ねられてきた時間の延長線上にいる。宇宙からみれば、ほんの一瞬でしかないその歩みの中の、数多な災いを含む出来事には、未来へ繋がる大切な意味があったと思いたい。
陽だまりのテラスで、お気に入りのリーディンググラスを置くと、顔見知りの店員がコーヒーのお代わりを持ってきた。家族連れで賑わう、師走初めの午後であった。
北久保まりこ
昨年11月名古屋にて行いました短歌朗読に関する記事が、『心の花』2月号に掲載になりました。
大変身にあまる内容でご報告下さいました田中徹尾氏(心の花会員)に心より御礼申し上げます。
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「心の花 創刊120年記念号」の会員 自選三首に私の歌が掲載されました。
父の記憶は私が八歳の春までで途切れる。
誰が悪いわけでもなく、物語が唐突に終わってしまうこともあるのだ。
お父様が居なくなっても大丈夫?うん、大丈夫よ・・・それが父との最後の会話ー。翌日、父の姿は本当に家から消えていた。まさか という驚きと後悔の念が押し寄せ、胸のなかで高波になった。今も小三の私は、あの縁側に立ったままだと感じるのは、紫陽花の咲く 父の日の頃。
後に孫の顔を見せたくて、母と共に父を探した。十五年前に亡くなっていたと知ったのは、随分と経ってからだ。
時間は止まったまま巻き戻せもしない。「ごめんなさい。あの時の応え、本当は嘘」実際に会うことができたら、そんな風に素直に話せ るかしら、などと仕様のないことを思ってしまうのは、決まってこんな猛暑の命日あたりだ。
この頃、ひょろりと背の高い息子の仕草が、父のそれに似て見える。
天国の父は私を許してくれたのだろうか。
水溜まりから雲がでてゆくやうにしてあの朝父はゐなくなりたり
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